新潟の米、日本の米

本章では参考資料として、新潟の米づくりと、日本の米を取り巻く現状についてご紹介します。

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美味しさの秘密

新潟の米、日本の米

新潟県の米づくりの現状

日本一の生産量を誇る「新潟米」は、全国で高い評価

新潟県では米づくりが盛んに行われ、米の作付面積、生産量、産出額のいずれも都道府県別で全国で1 位です。新潟県でつくられている米は新潟を代表するコシヒカリのほか、こしいぶきも新たな定番として定着しています。これらの米は関東、近畿をはじめとする全国に出荷され、高い評価を受けています。

新潟米は海外でも好評

新潟米の輸出量が近年、大幅に増加しています。平成22(2010)年度には中国、台湾などの増加で前年比2倍超と大きく伸びました。翌23(2011)年度は福島第一原子力発電所事故により、諸外国で講じられた日本産農林水産物の輸入規制措置等の影響により減少したものの、平成24(2012)年度には回復傾向が見られ、平成26(2014)年度も香港、シンガポールへの輸出が着実に増加したことから、過去最高の輸出量となっています。

新潟県から広がった米

米のおいしさを世に知らしめた「コシヒカリ」

新潟で選抜された株から福井で誕生し、新潟県の奨励品種となったコシヒカリ

現在の新潟米を代表する「コシヒカリ」の歴史は昭和19(1944)年、新潟県農事試験場(現新潟県農業総合研究所)で行われた交配にはじまります。交配には新潟県で開発され、高収量で品質と食味が良い「農林1号」と、病気に強い「農林22号」が選ばれ、両方の長所を併せ持つ品種の開発を目的に行われました。そしてこの交配から選抜された株は、福井県立農事試験場(現福井県農業試験場)に引き継がれ、昭和28(1953)年に「越南17号」という系統名が名付けられました。
全国の試験場に試作が依頼された越南17号は、品質や食味は良いが、病気に弱く、丈が高くなり倒伏しやすいという弱点を多くの試験場から指摘されました。しかし新潟県農業試験場(現新潟県農業総合研究所)は、試作結果が良好で、弱点は栽培技術でカバーできる範囲と判断し、昭和31(1956)年に新潟県の奨励品種に採用。千葉県でも奨励品種に採用されることが決定し、越南17号は農林100号として登録されました。そして"越の国(現在の新潟県から福井県)に光り輝く品種"となることを願い、「コシヒカリ」と命名されました。

おいしい米の代名詞として、新潟から日本全国に拡がったコシヒカリ

新潟県でコシヒカリが広がった理由には、当時の新潟米の評判と関係があります。昭和の初め、鳥も食べずにまたぐ"鳥またぎ米"と呼ばれたほど低評価だった新潟米は、昭和6(1931)年に誕生したコシヒカリの父「農林1号」により評価を高めたものの、戦中戦後の食糧増産時代を経て、昭和30年代の評価は極めて低いものでした。このため昭和37(1962)年から「日本一うまいコメづくり運動」が展開され、そのなかで食味の良いコシヒカリ生産が推奨され、生産者から注目が集まりました。

昭和44(1969)年に自主流通米制度が発足し、昭和45(1970年)に生産調整が本格化されると、これまでより多くの生産者が多収性よりも食味や品質の良さを重視するようになりました。その視点の変化がコシヒカリの生産拡大を後押ししました。さらに1970年代、新潟県経済連(現JA 全農にいがた県本部)が客層を限定した販売宣伝を首都圏で行った結果、「新潟コシヒカリ」のブランド化も進みました。

その後、コシヒカリは昭和54(1979)年に全国の品種別作付面積で1 位になり、昭和63(1988年)には作付面積に占める割合が20%を突破し、平成8(1996)年には30%を超えました。おいしい米の象徴的な存在として、その地位は不動のものとなったのです。


コシヒカリの稔り


新潟県農業総合研究所のコシヒカリ記念碑

新潟米の新たな顔となった「こしいぶき」

コシヒカリ集中からの脱却を目指した「こしいぶき」の開発

「こしいぶき」の開発がスタートしたのは、平成5(1993)年のことでした。平成に入ると新潟県内ではコシヒカリ生産がますます増え、平成元(1989)年に59%だった作付面積は、平成4(1992)年に60%を超え、平成11(1999)年には80%を突破し、気象面や経済面からコシヒカリ集中へのリスクが大きく高まりました。この状況を打開するために、コシヒカリと同様の食味の良さを持ち、かつコシヒカリよりも収穫が早い早生品種が求められました。しかし日本を代表する米となったコシヒカリに並ぶような品種を開発すること自体が容易ではなかったことに加え、早生品種は食味面で劣るとされてきました。そこで「こしいぶき」の開発は、通常の2倍の交配組み合わせの中から選抜がはじまりました。

米に厳しい新潟の生産者に認められていった「こしいぶき」

高品質、良食味特性を持つ優良な7 系統に絞り込み、平成5(1993)年の記録的な冷夏、平成6(1994)年の干ばつ、平成11(1999)年の異常高温など、気象変動の厳しい環境下でチェックが行われました。さらに新品種の品質を安定させるために、1年間に2世代進めることができる沖縄の石垣島で研究を行い、開発期間の効率化を図りました。その結果、およそ7 年でコシヒカリに匹敵する新品種の開発に成功しました。

コシヒカリの遺伝子も受け継いだ新品種は、"越後の新しい息吹"から「こしいぶき」と名付けられ、平成12(2000)年に新潟県の奨励品種として指定されました。米づくりにこだわりの強い新潟県の生産者に徐々に受け入れられていった「こしいぶき」は、平成25(2013)年の品種別作付面積で18%を占め、新潟の新たな顔として定着しています。

こしいぶきの稔り

石垣島での世代促進の作業

おいしい新潟米の元祖「農林1号」

「農林1号」は水稲で初めて農林登録をされた第1 号品種で、正式には「水稲農林1号」と命名されています。これが開発されるきっかけとなったのが、新潟米が昭和の初めまで、"鳥またぎ米"と呼ばれ、病虫害に弱く、実りも少ないと評価されていたことでした。この事態に対応するため、新潟県農事試験場(現新潟県農業総合研究所)では米の品種改良に努め、試行錯誤が繰り返されました。そして昭和5(1930)年に「森多早生」と「陸羽132号」の交配から新品種が誕生し、翌6(1931)年「農林1号」と名付けられました。

病虫害に強く、収量が多く、食味・品質ともに良い「農林1号」は、生産者はもちろん、消費者にも受け入れられ、それまでの新潟米の評価を徐々に変えていきました。そしてこの「農林1号」が後のコシヒカリの父となり、その後開発された「こしいぶき」、そして新品種「新之助」へと、その遺伝子が受け継がれているのです。

農林1号を育成した並河 成資 氏の銅像

日本の米を取り巻く現状

米の生産量は低下しているものの、日本の農業における重要性は高い

日本全国の米の作付面積、生産量はともに減少を続けています。また平成25年の米の産出額は、価格が低下したことにより、前年より減少しているものの、農業産出額全体における割合は20%以上を占め、その重要性は高いことがわかります。

日本の米は少しずつ多様化が進む

米(水稲)の品種別の作付割合では、不動の1位の座を占めるコシヒカリが、近年頭打ちの傾向を示しています。上位10品種の合計も平成17(2005)年産から減少を続け、品種の分散が少しずつ進んでいます。

日本の米の輸出量が急増

日本の米の輸出量が好調に増加を続けています。近年では平成25(2013)年が前年比42%、平成26(2014)年も45%の伸びを示しています。また輸出先を見ると、香港とシンガポール向けが急速に増加しています。

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